コラム:教育勅語の問題点と教育勅語肯定派が本来なすべき議論のあり方

先日、第四次安倍内閣で文部科学大臣に就任した柴山昌彦氏が、就任記者会見でNHK記者の質問に答えました。教育勅語の内容に普遍性があり、アレンジして活用できるという趣旨の回答をしました。この発言が大きな波紋を呼んでいます。

当編集部としてはこの発言に反対をする立場ですが、この問題は多くのメディアや左派野党議員が述べるほど絶対悪な発言とは言い切れず、議論の余地は多分にあると考えています。

この記事では、

  1. 教育勅語否定派として教育勅語の問題点を主張し、
  2. さらに教育勅語肯定派の問題点を指摘し、
  3. 肯定派がどのような主張をすれば議論になり得たかを解説

しています。

教育勅語の問題点とはなにか

教育勅語の内容については下記のサイトに原文と現代語訳が掲載されています。なんだかんだで実際に読んだことがないという人も多いと思いますのでぜひ読んでみてください。

http://chusan.info/kobore8/4132chokugo.htm

いろいろな現代語訳を見ましたがこのサイトの現代語訳が最も優れています。その他の訳は批判的な勢力にせよ、肯定的な勢力にせよ、自身の思想を反映した意訳が過ぎています。現代語訳をお読みになりたい方はこちらのサイトをお読みください。

教育勅語を実際に読んでみてどうお感じになったでしょうか。教育勅語の問題点を端的にいうならば、国民と国家の関係が逆転しており、近代国家・近代立憲主義にそぐわないということです。

近代国家は国民の権利を守るために存在する

高校の現代社会で習う社会契約説を覚えていらっしゃるでしょうか。

近代以前の国家は一般に、王侯貴族や宗教的権威主体によって運営され、国民は国に支配されていました。国の運営者が決めた法律を守らされ、税や年貢を一方的にとられ、批判をすれば捉えられたり殺されたりしてしまう。それが近代以前の国でした。

それが近代になり、国民は「どうしてあいつら(国家)の言うことを聞かなければならないんだ。我々人間は自由で平等な権利を持っているはずなのに」と考えるようになりました。

しかし、国家はなくなってもよいのでしょうか。国家がなければ、犯罪を犯しても捕まえてくれる警察はいません。災害が起きても復興支援をしてくれる人はいません。生活に困窮しても生活保護は当然ありません。

国家がなくなったからと言って、国民の自由と平等は実現できません。とはいえ、もう「昔から先祖代々王様だから」とか「神様が言ってるから」とか「ならば戦争だ」とか言っても国民は納得しません。

だから、近代以降の国家は国民の自由と平等の権利を守るために国民の委託を受けて権力を発揮する機関として存在することになりました。つまり国民のために国家があるのです。これが近代国家であり、日本も近代国家です。

しかし、教育勅語に示された国家と国民の関係は違います。教育勅語では国家を守るために必要な国民の姿勢を示しています。国家のために国民は忠義を尽くせと、国家権力の代表者である天皇陛下自身が国民に述べているのです。これでは「国民のために国家がある」のではなく「国家のため国民がいる」ことになってしまいます。

それゆえ、教育勅語は近代国家としてふさわしくなく、教育勅語を肯定することは近代国家の否定になります。

近代立憲主義の憲法は国家権力を制限するためにある

似たような話になりますが、今度は憲法の話です。

前近代的な憲法と、近代立憲主義に基づく憲法の違いは何でしょうか。それは、全近代的な憲法は国家権力を行使する側が国民や官僚を統率するために制定したものなのに対して、近代立憲主義に基づく憲法は国民が国家権力を制限するために制定するということです。

さきほど、近代国家とは「国民の自由と平等の権利を守るために国民の委託を受けて権力を発揮する機関」だと述べました。しかし、国家に権力を与えすぎては近代以前と同様に国民の権利は守れません。

ですからそうならないように、「国家がどこまで権力を行使することを許すのか」を国民が決めたものが近代立憲主義の憲法なのです。そして、法律とは具体的にどのように権力を行使するかを示したものです。

例えば、国家権力は国民を逮捕して牢屋に入れる事ができます。税金として国民の財産を取り上げることができます。しかし、それは国民が憲法18条や31条で国家に対して認めているので、可能なのです。

第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第29条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

ただし、条文を読んでもらえばわかるように、なんでもかんでも逮捕できるわけでは当然なく、法律にしたがって国家は権力を行使する必要があるのです。

ここからわかるように、憲法とは国民が守るものではなく、国家側が守るべきものであり、法律とはどういうときに国家が権力を行使するか具体的な基準を定めたものと言えます。

しかし、教育勅語は国家権力の代表者である天皇陛下が、国民に対して、憲法や法律を守るように促しています

それゆえ、教育勅語は近代立憲主義の精神に反しており、現代日本にはふさわしくないと言えます。

教育勅語の問題点をまとめると

近代国家・近代立憲主義においては、国民の権利を守るために国家があり、国家が暴走しないように憲法で抑止しているというのが前提になっています。もちろん、どこまで国家権力の介入を容認するかという点ではさまざまな主義主張があり、もっと議論が必要です。

しかし、教育勅語は本質的に近代国家・近代立憲主義の前提をそもそも満たしていないので、議論の余地もないというのが結論です。

教育勅語発言肯定派の前提は否定派に対して説得的でない

教育勅語発言肯定派の主張はおもにこうしたものです。

教育勅語の以下のような部分は道徳的に正しいじゃないかというものです。

父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ
(引用:教育勅語)

しかし、教育勅語は国民にそうすることで国家に尽くせと言っているのですから、近代国家の理念に反しており、我が日本国は近代国家なのですからふさわしくないのです。

さらに、そもそも今回の教育勅語発言に批判的なひとは道徳教育にも批判的なひとたちです。ですから、こうした論調は反対勢力を説得する可能性はほぼなく、同じ意見も持つ人たちへのアピールとして捉えるべきでしょう。こうして社会の分断がすすむでいきます。

本当に議論するべき最も大切な論点

教育勅語に賛同するようなひとたちは牢屋にでもぶち込んでおけばよいのでしょうか。そんなはずはありません。では、教育勅語発言肯定派はどのように議論をすすめればよかったのでしょうか。それは同じ前提で議論するという当たり前のことをするだけです。

教育勅語に示された国民像は、たしかに素晴らしく、そんな国民ばかりだったら国家の運営もかなり楽になるだろうと思います。そして今の日本の運営はけっしてうまくいっていないことは確かです。高齢化問題。それに伴う社会保障費の増加、それによる財政赤字、その他安全保障上の問題…などなど。

もしこのまま厳しい運営をつづけて日本という国家が崩壊してしまったらどうなるでしょうか。国家が崩壊すれば「国民の自由と平等の権利を守る」存在がなくなるということです。

たしかに教育勅語は精神は「国民の自由と平等の権利を守る」近代国家の精神に反してているようにみえます。しかし、国民が自由を求めるあまり国家が崩壊してしまえば、だれも権利を守ってくれません。国民の権利を守るためにはどうしても国家は必要であり、今よりもっと安定的に国家を運営するためには教育勅語に示されたような国民が必要なのかもしれません。

権利を守りすぎては権利を守れなくなる。矛盾しているようですがこれが現実です。

教育勅語発言肯定派は、近代国家・近代立憲主義という前提に則った上での肯定論を主張すべきです。そうしないと幼稚な復古主義にしか見えず、相手を説得できず、社会の分断が広がり、国家の安寧を乱すだけです。